天下人太閤秀吉を祀る京都『豊国神社』を観光!!

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天下人太閤秀吉を祀る京都『豊国神社』を観光!!

目 次

京都東山。

 

三十三間堂や清水寺といった京都を代表する観光地から少し離れたところに決して大きいとは言えない神社があります。

 

そこは天下を取った豊臣秀吉を祀る『豊国神社』です。様々な因果からこの地に眠ることになった秀吉。

 

今回は天下人秀吉を祀る『豊国神社』についてお話します。

 

『豊国神社』の歴史

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慶長4年、東山三十六峰のひとつ阿弥陀ヶ峯に秀吉を「豊国大明神」として祀る壮麗壮大な神社が創建されました。

 

大坂夏の陣で豊臣氏が滅亡した後、徳川家康の意向により後水尾天皇の勅許をえて「豊国大明神」が剥奪された後、廃祀され、以後250年間、草むらに埋もれ庶民の参拝もできない状態で放置されていました。

 

復興されたのは、明治時代に入ってから。

 

明治元年、明治天皇が「天下を統一しながら幕府を開かなかったのは尊皇の功臣である」と豊臣秀吉をたたえ、豊国神社再興を命じたのがきっかけです。

 

明治6年には別格官幣社に列し、明治13年に方広寺大仏殿跡地に社殿が完成し名実ともに『豊国神社』として復興したのです。

 

豊臣秀吉と『豊国神社』

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豊臣秀吉の遺体は、死後火葬されることなく伏見城内に安置されました。

 

豊臣秀吉の死去の翌年の慶長4年4月13日、遺命により方広寺の東方の阿弥陀ヶ峰山頂に埋葬されその麓に廟所が建立されたのが豊国大明神のはじまりです。

 

廟所は秀吉の死後間もなく着工されましたが、着工時はまだ秀吉の死は伏せられていたため「大仏の鎮守社」と称していました。

 

この鎮守社は『義演准后日記』慶長3年9月7日条、北野神社に倣い八棟造りであると記されています。

 

豊臣秀吉は奈良東大寺大仏殿を鎮護する手向山八幡宮に倣い、自身を「新八幡」として祀るようにと遺言を残したといわれています。

 

そのため「大仏の鎮守」として着工された社は、豊臣秀吉の死が明らかになるのに合わせるように「新八幡社」と呼ばれるようになります。しかし、慶長4年4月16日、朝廷から豊臣秀吉自身の望みとは相違して「豊国乃大明神」の神号が与えれるのです。

 

『豊国大明神臨時祭礼御日記』によると、「豊国」の由来は、日本の古い氏名である「豊葦原中津国」が由来とするとされていますが、豊臣の姓も意識的に含んだものとされています。

 

『豊国神社』の唐門の歴史

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『豊国神社』に祀られている唐門もまた、豊臣秀吉とは相異なる歴史を持ちます。

 

国宝として認定されており、現在は豊国神社に置かれている唐門ですが、戦火をくぐり抜け幾つもの地を転々として現在の場所へ置かれました。

元々は伏見城の唐門であり、桃山時代らしさが感じられる豪華絢爛な門なのです。

 

総ケヤキ造の唐門は、かって極彩色の彫刻と金箔で飾られていたそうです。西本願寺・大徳寺の唐門と合わせて「国宝の三唐門」と呼ばれる貴重なもので、唐門正面の「豊國大明神」の御神号額は、後陽成天皇宸筆の勅額です。

そんな立派な唐門ですが、伏見城が廃城されると二条城に移されます。更に南禅寺の金地院を経て、最終的に『豊国神社』へと移されました。

 

唐門の欄間には「目無しの鶴」が2匹います。左甚五郎作の彫刻で目を入れて完成してしまうと鶴が飛んでいってしまうという危惧から目なしになったといわれています。

 

ダルマさんの謂われにも通じるものがあるのは興味深い点です。

 

『豊国神社』の唐門と登竜門

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『豊国神社』の唐門には鯉が滝を登る姿が彫刻として施されています。

 

鯉が滝を登り竜になるという故事は登竜門の語源になっています。

 

このことから、この門をくぐると出世できると言い伝えられています。

 

『豊国神社』の紋である豊臣秀吉の家紋・五七の桐

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『豊国神社』の手水場には豊臣秀吉の家紋・五七の桐が刻まれています。

桐紋は元々天皇家の家紋であり、最高位を象徴する紋として現在では内閣府でも使用されています。

 

菊紋に次ぐ紋であった桐紋ですが、天皇家が功績のあったものに下賜したために武家に広まりました。そして豊臣秀吉も下賜されることになります。

 

明治時代に「朝廷の政府」ということで桐紋の使用を宣言して政府が使用し、その流れで現在の政府も使用しています。

 

織田信長から与えられた馬印、千成ひょうたんのイメージが強い豊臣秀吉。実際ひょうたんの紋を使用していた時期もありますが、晩年は桐紋を権力の象徴として掲げていたのです。

 

『豊国神社」の瓢箪型の絵馬

 

至る所に桐紋が刻まれている豊国神社ですが、こちらの神社の絵馬はひょうたんの形をしています。出世祈願を込めて列なるひょうたん絵馬は正に千成ひょうたん。

 

ひょうたんは秀吉のトレードマークとしてここ『豊国神社』でも利用されています。

 

桐紋にひょうたん。豊臣秀吉のシンボルが散りばめられた『豊国神社』へ出世祈願を参拝に訪れる人が多くみられます。

 

『豊国神社』の近隣

 

豊国神社の近隣には三十三間堂や智積院、方広寺等があり、少し離れて清水寺へもアクセス可能です。

 

以上、天下人豊臣秀吉を祀る豊国神社の紹介でした。

 

豊臣秀吉ゆかりの地へ、歴史を感じに観光に出掛けてみては如何でしょう。
桐紋やひょうたん等、豊臣秀吉ゆかりのシンボルを発見できるかもしれませんよ。

 

追記:平成28年4月19日にお参りしてきました。

 

2泊3日の京都・奈良旅行の最終日、『方広寺』と『豊国神社』にお参りに行ってきました。

 

実は外国人の多さにウンザリ気味でしたので、外国人がいないヒッソリとした寺社を選んで行ってきたのですよ!ということで、到着。

 

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やはり、人一人いないですね!豊臣秀吉は現在の京都の町に繁栄を戻した英雄なのですけどね!こうも人がいないと寂しい気持ちになってしまいますね。

 

京都の町の今後の繁栄祈願と豊臣秀吉の尽力への感謝をこめてお参りをして、御朱印をゲット。

 

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この御朱印の御銘は豊臣秀吉の関白印の御銘です。御朱印の中央に「関白」と記してあり、右側に「壽比南山」左側に「福如東海」と記してあり、左側から読みます。漢文であり、日本語では「福、東海のごとく、壽、これ南山なり」と読みます。

 

元の文章は「福如東海長流水 壽比南山不老松」で「福は東海への水の流れのように長く、壽は南山の松のように老いることはない」と訳し、「幸せも寿命も長く続きますように」と祈るおめでたい言葉なのですよ!

 

ちなみに、豊臣秀吉の月命日18日に『豊国神社』の御朱印をいただくと、豊臣秀吉の家紋・五七の桐の印が金色になります。私は1日遅かったのでいただくことはできませんでした。

 

今度の京都旅行は豊臣秀吉の月命日18日に合わせて、「京都十六社めぐり」か「京都刀剣ご朱印めぐり」でもしようか思いながら、帰宅の途についたのでした。

 

最後まで読んでいただきありがとうございました。皆様のご参考になれれば幸いです。

 

今回の観光地はココ↓です。

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